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Home >  在宅診療の教科書 >  数値の「正解」より、包丁が握れる「幸せ」を。

数値の「正解」より、包丁が握れる「幸せ」を。


病院の白い壁に囲まれた診察室と、住み慣れた我が家の茶の間。
この二つの場所では、同じ「医療」であっても、その目的と正解が全く異なります。

病院が提供する医療は、病気そのものをターゲットにした「治す医療」です。そこではガイドラインに沿った標準的な治療が行われ、データや数値が改善することが最大のゴールとなります。

しかし、患者が自宅に戻った瞬間から始まるのは、病気を抱えながらも日々の暮らしを営んでいく「支える医療」です。

在宅医療の現場で私たちは、「医療は3割、生活が7割」という言葉を常に胸に刻んでいます。
医療はあくまで、患者が自分らしく豊かな生活を送るための「手段」に過ぎないからです。

病院の「治った」と、在宅の「治った」のズレ

かつて内田がリウマチ・膠原病内科を学び始めた頃、非常に印象的な経験をしました。

病院の外来で採血を行い、検査データの数値を見た医師は、満足そうにこう言います。
「数値は非常に安定しています。あなたのリウマチはとても良い状態ですよ。」
しかし、患者の表情は晴れません。

なぜなら、数値は良くても、痛みや変形のせいで大好きな料理のための包丁を握ることも、鍋を振ることもできないままだからです。

病院の目線から見れば、これは「治療成功(治った)」です。
しかし、在宅医療の目線、つまり患者自身の「生活」から見れば、料理という人生の楽しみや家庭での役割が奪われたままであり、到底「治った」とは言えないのです。

家に入り込んで生活を診る在宅医療だからこそ、こうした「医療のデータ」と「本人の暮らし」の間にある残酷なギャップに気づき、そこにアプローチすることができます。

「在宅推論」が捉える、暮らしのシグナル

私たちは、患者の自宅の玄関をまたいだ瞬間から、医学的な五感と生活の視点を研ぎ澄ます「在宅推論」を始めます。

例えば、テーブルの上に置かれた食事の様子。
冷蔵庫を開けると中身が同じものばかりであったり、火や包丁を使わずにすぐ食べられる「菓子パン」や出来合いの弁当が増えていたりすることがあります。

これは単なる好みの変化ではありません。「調理や買い物、火の管理をするための身体機能や認知機能が低下し、生活が崩れ始めている」という、体からの無言の危険信号(アラート)なのです。

また、あるお宅の壁に掛けられた「ねじ巻き式の古時計」が、高い位置にあるにもかかわらず狂いなく時を刻み、ネジがしっかり巻かれているのを見たとき、私たちは安堵します。
それは、手を高く伸ばしてネジを巻く「運動機能」と、ネジを巻くタイミングを理解する「時間・認知機能」が、日々の生活の中でしっかりと保たれている証拠だからです。

このように、何気ない雑談や暮らしの風景(部屋の匂いや整理整頓の状況)から、隠れたリスクや予後をいち早く見抜くこと。これこそが在宅医や在宅看護師に求められるプロの観察力です。

医療を日常にフィットさせる「薬の断捨離」

在宅医療では、医療をただ押し付けるのではなく、いかに「その人の日常に溶け込ませるか」が問われます。
その最たる例が「お薬の断捨離(ポリファーマシー抑制)」です。

複数の医療機関から「1日3回」「毎食後」と、何種類もの薬を処方され、飲み切れずに自宅に大量に余っている高齢者は少なくありません。
病院のルールをそのまま家に持ち込み、「ルール通りに飲みなさい」と強要しても生活は破綻します。
そのため、私たちは薬を極力シンプルに整理し、「1日1回、デイサービスに行く前や、ヘルパーが訪問するタイミングで確実に飲めるように集約する」といった工夫をします。

さらに、高齢になって食事量が減り、体重がたとえば「80㎏から40㎏」へと半減しているにもかかわらず、若い頃と同じ処方量のまま薬を飲み続けているケースもあります。
体重が減った体に対して同じ量の薬を飲み続ければ、効果が強く出すぎたり、転倒を誘発するような恐ろしい副作用が生じたりします。

これらを慎重に見直し、薬を「断捨離」した結果、驚くほどお年寄りが元気に、穏やかになる姿を私たちは何度も見てきました。
薬を減らしても、患者との関係が切れることのない在宅医療だからこそ、私たちは責任を持ってこの「薬の引き算」を行うことができるのです。

誇りと尊厳のある人生の伴走者として

病気だけを診て、生活の楽しみや家族の中での役割を奪ってしまっては本末転倒です。

寝たきりになったとしても、おじいちゃんが小学生の孫の音読の宿題を聞いてあげる。そんな小さな「家族内での役割」を維持し、誇りと尊厳を最期まで守り抜くこと。

夜間に不安で眠れないご家族から電話が入ったとき、ただ「薬を飲んで様子を見て」と突き放すのではなく、「お伺いしましょうか?」と自ら手を差し伸べ、駆けつけること。

私たちはこれからも、単なる「治療の代行者」ではなく、患者様とご家族が「自分らしい最期」という一つの物語を完成させるための、最も身近な伴走者であり続けたいと考えています。